『まんまだより』からみる小豆計画の歴史(2023年)

(2023年1月前半号)
2022年は『ここ鹿児島で小豆を生産してあんこをつくろう!』という目標をただひたすら実行していった1年でした。
いつものように資金力ゼロからのスタートでしたので、まずは商工会や銀行や補助金関係に熱いアプローチをかけるところから始まり、企画書や経営計画書をつくり、計画を進めながら、補助金や融資申請を出し続けました。
計画はどんどん進んでいく一方で、各種補助金には落ちまくり銀行からの融資もなかなかうまく進まず、焦る日々。
あまりにずっと胃が痛むので胃カメラも飲みましたがいたって健康体・・・。

やっと補助金が通って銀行も融資に乗り気になってくれて順調に進んでいくと思いきや、今度はあらゆるものの値上げの大波に巻き込まれ、通販事業の売上も激減していく日々。

さらには建築する製餡所が各種法の規制により「浄化槽を大型にしろ」「排煙窓を設置しろ」等々、有難くご指導されて、急に高額な出費が続くという、胃と心臓に悪いことの連続でした。

しかし何もないところから新しいなにかを生み出すことはとても面白いです。
特に農業に関わるにあたって、まず心掛けたのは『来年もまた続けたくなる農業を』。

日本の農業は、機材は借金を重ねて購入し、人材は自分の家族と外国人実習生を使い、作物は市場で安く買い叩かれてしまうのが現状です。
重労働な上にリスクばかりで儲からない。
後継者は激減し、高齢化が進んでいます。
新しく小豆生産に挑戦し来年以降も続けて頂くには、専用機材はこちらで提供し、栽培については講習会や随時相談を受けて伴走し、そして買取り価格を市場よりかなり高くすることだと考えました。

資金ゼロの自分がこれらを実行するにはどうしても国からの補助金や銀行からの融資が必要だったので、無事に通った時は本当にホッとしました。

市報の広告欄で生産者募集をし、生産講習会を開催し、生産者グループLINEを開設して状況を報告し合い、収穫期に入った今は、購入した脱穀機が各生産者さんの畑をまわっています。
小豆の鞘の様子を語ったり脱穀機を借りにきたりする生産者さんの嬉しそうな顔を見ると、こちらもとても楽しい気分になります。

これからかごしまんま倉庫を改修して、2月には乾燥機と選別機と重量計を設置予定です。
生産者さんたちが代わる代わる来て、これらの機械を使ってピカピカの小豆にしてくださることでしょう。
5月にはおそらく製餡所も完成し、生産者さんたちがつくってくれた小豆でいよいよあんこ製造スタートです。

いまは「鹿児島で小豆?聞いたことないよ」という世間の常識。
これから数年かけて「鹿児島には、かのや姫小豆があるよね」という認識に変えていく。
それが今の私の夢であります。

続けたくなる農業を。
これを常に忘れずに。
農家さんへの感謝をいつも胸に。

(2023年9月後半号)
製餡所に全ての機械類がやっと揃いました。
いよいよ粒あんづくりのスタートです。
しかしかごしまんまは誰も本格的な製餡をしたことがありません。
10年ものあいだ野菜や食材と向き合ってきただけです。
大坂屋さんや製餡機械メーカーさんに製餡を多少教わりましたが、不安材料しかありません。

しかし初めて機械で製餡する前日。

たまたま鹿屋の小豆の歴史を知りたくて、1860年創業の老舗和菓子店の富久屋さんに勇気を出して聞きに行きました。すると店番していたおばあちゃんが快く小豆の歴史を教えてくださって、さらにはかのや姫小豆を復活させようとしていることをめちゃくちゃ喜んでくださって、なんとそこの社長さんが製餡指導してくださることになりました。
もー、ただただびっくりです。
だって初製餡の前日にですよ、老舗和菓子屋さんに飛び込んだら助けてくれることになった、なんてウルトラ奇跡ですよ。
まさに事実は小説よりも奇なりです。

翌日。
不安だらけだった初製餡は、一転して和菓子の師匠が降臨したギフトな時間に変わりました。
小豆を扱う手さばきも、餡練り機とピッタリ合う呼吸も、道具を大切にする作法も、師匠の一挙手一投足にただただ感動して、あっという間に50kg近くの粒あんができました。


師匠がいてくださって、本当に助かりました。
製餡そのものだけではなく、機械や道具類の洗い方やアリ退治の極意まで、惜しみなく教えてくださいました。
かごしまんまスタッフだけで製餡していたら、と思うとゾッとしました。
初心者にとってはそれほど大変な作業でした。

「どうしてこんなにも親切にしてくださるのですか。本来なら何年も厳しい修行を積むのが和菓子の世界だと思っていました。それをこんなにも惜しみなく教えてくださるなんてただただ感謝です」
とお礼を述べると、師匠はこう仰いました。
「だってこんな誰もやらないようなことを借金してチャレンジしようとしてるんだもの。鹿屋の小豆を復活させてうまくいけば鹿屋の地域おこしにもつながる大切なことだもの。応援するでしょ、そりゃ。教えられることは教えますよ僕は。また製餡する時には僕を呼んでくださいね。時間があるときは来ますから。頑張りましょう!」

製餡した次の日。
師匠もとい富久屋の社長から電話がかかってきました。
「ねえ昨日のあんこの売り先、決まっているの?決まってないのなら少し買い取るよ。
流通網が発達していなかった一昔前までは鹿屋はみんなこの小豆だったんだから。
美味しいってみんなわかるよ。
良い小豆だからお彼岸のおはぎ作るからさ。頑張って売ろうよ」

毎日のように私を涙ぐませる富久屋さんでした。

富久屋さんのおはぎ。
それはもう、最高に美味しいおはぎでした。
初製餡はこんな感じでとても記憶に残るものとなりました。

2024年 1月 16日 Blog | クラウドファンディング活動報告